山で道に迷ったり、道を間違えた経験は少なからずあるけれど、30代前半の頃、富士山の下山時に道を誤ったときのことはとても印象深く覚えている。
積雪期ではなく無雪期で、ルートは御殿場口。
私一人で登っていた。
当時私はヒマラヤの8千m峰に登ることをライフワークのようにしており、そのためのトレーニングで富士山の御殿場口コースに頻繁に通っていた。
標高差があってトレーニングに最適だからである。
そのときすでに何十回も登っている、通い慣れた道だった。
あとわずか30分足らずで登山口に着くというあたりまで下山していたのだが、そのあたりでルートを誤ったことに気づいた。
富士山・御殿場口の下降路は大砂走りと呼ばれるザラザラの道で、無雪期でも登山道が明瞭ではない。
その代わり道しるべとして約50mごとに高い棒が打たれているのだが、その日はガスが濃かったため、それくらい近い間隔で立っている棒を見逃してしまい、いつのまにか登山道より左の方にずれてしまったようだった。
道の間違えに気づいた私がすべき唯一のことは、落ち着いて地図を見て、そして引き返すことであるとわかってはいたのだが、慣れきった山ゆえ、私はこの日地図を持参するのを忘れていた。
それでも下りてきた方向に引き返せばよかったのだが、何しろかなりの速度で下りてきている。
登り返すのも一苦労だろう……。
いや、実際には登り返してみればたいしたことはなかったのかもしれないが、「何とかなるだろう……」と安易に考えた私は、少し方向を修正し、さらに下って行くことを選んでしまった。
ところが、いくら下りても、いっこうに正しい道が見えてこない。
あと30分くらいで登山口に着くところまで下りていたのに、30分どころか1時間下っても、登山道に出られなかった。
さすがに不安な気持ちもふくらんだが、これだけ下ってしまっては、ますます引き返すことは困難だ。
もはや下るしかない!
救いは、山が富士山であったことだ。ひたすら下りていけば、いつかは車道に出られるということがわかっていた。
これが他のもっと深い山脈などであれば、闇雲に下りて沢筋に入り込む、典型的な遭難パターンに陥っていたことだろう。
ますます膨らむ不安な気持ちをこらえながらひたすら下っていくと、やがてようやく車道に出た。
そこは登山口よりはるかに下った場所であった。
山で道に迷うのは初めてのコースよりも過去に行ったことのある場所の方が多いと聞いたことがあるが、富士山での私の道迷いはまさにその典型だろう。
何しろ何十回も歩いているコースだったし、ひと月もたたぬ前にも下った道だったのだ。
山で道を間違えた時はとにかく元の道を引き返す、という鉄則を知っていながら、このときの私はそれをしなかった。
引き返す、すなわち登り返すのが億劫に感じられたからである。
山で道を誤るのは登りよりも下りのときの方が多い。
なぜなら、登りは山頂という一点に向かって道が収斂していくのに対し、下りは尾根筋が末広がりに広がっていくからだ。
すなわち、道を間違えて引き返すということは、イコール下ってきた道を登り返さねばならないという場合が多く、私でなくとも抵抗感を感じてしまいがちなのである。
ちなみに当時の私は体力的にかなり強く、余力はもちろん十分にあったのだが、それでも登り返すのが面倒に感じられたのだから、体力がない登山者ならばなおさら引き返す判断はとりづらいかもしれない。
けれども、そこでついつい下してしまう“何とかなるだろう”という甘い判断によって、これまで幾千幾万の登山者が痛い目にあってきたのである。
山で道を間違えたとき、迷ったときにすべきことは、立ち止まって一度落ち着き、まず地図やコンパスやGPSなどを出して見ることである。
その次は歩いてきた道を引き返す。
そうして元の道を引き返してみたら、意外と簡単に、「なんだここで間違えたのか」というポイントに戻れることが少なくないものだ。
やってはいけないのは“何とかなるだろう”とそのまま先に進み続けることだが、もう一つやってはいけないのは、リカバリーするためにショートカットを選ぶことだ。
これで墓穴を掘った道迷い遭難者はかなり多い。“こっちに行けば戻れるはずだ”、“こっちが正しい方向のはずだ”などと考えて、ショートカットしようとしてはならない。
迷ったときはとにかく来た道を引き返す! この鉄則を、ここで改めて皆で肝に銘じよう。
さて、そうは言うものの、すでに時間的に遅くなっていたり、体力的にいっぱいだったりして、引き返したくてもそれがかなわないときもあるだろう。
そんなときは無理に歩くよりも、ビバーグをするべきだ。
ビバーク(独:biwak 、英・仏:bivouac )とは、登山やキャンプなどにおいて緊急的に野営することを指す用語。不時泊とも言う。
そのために登山者は最低限のビバーグの備えを持っていた方がよい。
では「最低限の備え」は何かと言えば、それはツェルトと飲み水である。
非常食やコンロやシュラフカバーがあるにむろん越したことはないが、それらはなくてもなんとかなる。
めったにない危急時のために、ありとあらゆる非常用装備を持っていくのがよいことだとは思わない。
それでも私は、無雪期の日帰りの易しい山であっても、雨具や地図・コンパス、ヘットランプ、スマートフォンなどの他に、コンパクトなツェルトだけはザックに入れていくようにしている。
それさえあれば、万一ビバーグという事態に陥ったとしても、とりあえず生きて帰ることができると知っているからだ。
もちろん、本当にビバーグになったときは、その他にマットやライター、小型ラジオ、雪山ならばスコップなどがあるとかなり助けになる。
だから、それらツェルト以外の装備に関しては、行き先や季節によって取捨選択しよう。
道迷いをしたとき、もう一つ思い出してほしいことがある。
それは、道迷いの最中などには、滑落などの二重のミスをひじょうに起こしやすいということだ。
実際、道に迷ったあとに滑落して怪我をし、よけいに状況を悪化させた遭難者はとても多い。
道に迷ったときはよくよく気を落ち着かせ、滑落しないことへの十二分な注意を怠ってはならない。
最後に言わずもがなのことであるが、道に迷って下山できなくなったとき、登山計画書を出しているかいないかは、生死を分ける重要なポイントとなる。
道迷い遭難は単独登山者に多いからなおさらのことである。
家族も誰も行き先を知らずに遭難したのでは捜索してもらうことすらできない。
そしてそんな遭難者は実は少なくないのである。
私は職業ガイドなので仕事で山に行くときに登山計画書を提出しないということはありえないが、一人でちょっと日帰りの山に行くときなど、確かにわざわざ登山計画書をつくるのはめんどうだと思う。
そんなときは、手前味噌ながら、コンパスの登山届け提出システムが便利である。
ひと月ほど前、実に久しぶりに一人で富士山を登りに行った。
もちろん、地図もコンパスもヘッドランプもツェルトも携行した。当たり前だ(笑)。
そして私はコンパスのサイトから登山届けを提出し、親機を含めて3台ほど持っている電波発信機ヒトココを一つザックにしのばせ、そのIDナンバーを登山届けに記入した。
こう見えて私はけっこう慎重なのである(笑)。
著者:松原尚之