初めて雪崩に流されたのは、6年間も在学していた大学をようやく卒業しようという3月、剱岳でのことだった。
“卒業山行”には気合の入った登山がしたいと思い、仲間2人と鹿島槍ヶ岳天狗尾根から入山し、黒部川十字峡を渡って剱岳を目指す山行を計画した。
入山13日目、小窓の幕営地から歩きはじめてまもなく、小窓ノ頭への急斜面の登りで雪崩に巻き込まれた。
前夜には降雪があったがこの日は快晴だった。
急斜面のため背丈を越えるラッセルで、先頭の私は両手でピッケルを持って頭上の雪をかき落としていた。
瞬間、私の目の前の雪が崩れ、あとはなすすべもなく流された。
「泳ぐようにして顔を上に出さなければ……」。
頭にはそれが浮かんだが、雪の力に翻弄されてもんどりうちながら落ちていき、なすすべもなかった。
と、思ったら止まっていた。流されていた時間は10秒にも満たなかったのだろうか。
先頭だった私が40〜50mほど流されており、すぐうしろについていた仲間2人は、20mくらい上で止まっていた。
幸い3人とも埋没することなく、怪我もなかった。
大学山岳部で密度濃く経験を積んできたメンバーであったとはいえ、しょせんはまだ学生である。
みな雪崩に遭うのは初めてだった。
私たちは安堵の息を吐きながら、小窓に戻りその日は停滞とした。
1990年3月19日のことである。
当時は今ほど雪崩の知識も普及しておらず、私たちは弱層テストのやり方さえ知らなかった。
雪の状態など見定めることなく、天気が快晴になったから、「さあ、行くぞー!」であったのだ。
私たちが若い頃、雪崩に埋まって命を落とさず、今でも生きながらえているのは、そう、ある程度は運がよかったからなのである。
翌日も天気がよく、私たちはおっかなびっくり、再び小窓ノ頭を目指して同じ斜面を登っていった。
するとどうだろう。
わずか1日で雪は見違えるようにしまり、頭上まであった急斜面のラッセルがももくらいまで減っていた。
私たちは問題なくこの斜面を登りきることができ、この日剱岳山頂を踏んで、頂上直下に雪洞を掘り、山での最後の一夜を過ごした。
初めて実際に雪崩に遭ったこのときの体験が、その後の私の登山人生において貴重なものとなったのは言うまでもない。
雪崩に流されたことそれ自体もそうだが、もう一つ、私がとても印象深く胸にとどめているのが、このたった1日で雪の状態が大きく変わったことなのである。
その後ヒマラヤのダウラギリ1峰という山でテントにいるときに雪崩に襲われ、危うく命拾いをしたということが一度だけあったが、それ以降は(あまりハードな登山をしていないせいもあって)、幸いにも雪崩に遭うことなく、今も登山を続けられている。
その後1990年代に入り、雪崩学は急速に発展し、知識も普及するようになってきた。
けれども昔に比べ、雪崩事故が減っているかといえばそうとも言えないのが現状である。
スキーやスノーボードなどでいわゆるバックカントリーに入る人が激増したせいもあるが、滑りの人たちをのぞいた登山者だけにかぎっても、雪崩事故が減っているわけではない。
いくら知識が増し、雪崩ビーコンのような道具が開発されても、雪崩のリスクは今も私たち雪山登山者にまとわり続けている。
雪崩に関しては私などよりももっと専門的に勉強している方たちがたくさんいるので、雪崩について語るのはとても気がひけるのだが、冬の時期、雪山登山やアイスクライミングなどにひんぱんに出かけている山岳ガイドの私が、雪崩についてはどんなところに注意して山にのぞんでいるかを知ることも、まだ経験の少ない雪山登山者の方にとっては無駄ではないかもしれない。
というわけで、私が雪山で雪崩のリスクを回避するために気にかけている、私的・注意ポイントについて述べてみることにする。
なお、私はバックカントリースキーやスノーボードなどのガイドをすることはなく、最近では個人的にもスキーはたまにしかしていない。
私にかぎらず関東や甲信在住の山岳ガイドは、冬場は八ヶ岳に入ることが多いのだが、毎週のように入山する八ヶ岳で、一冬に一度か二度は、登山当日の天候のよしあしに関わらず、雪崩の危険を考えて登山を見合わせることがある。
どんなときかといえば、南岸低気圧の通過などでまとまった降雪があった直後及び降雪中である。
降雪の当日と翌日はもちろん、降雪が多ければそれから少なくとも2〜3日は注意をする。
昨冬も一度、前日の降雪のために大同心大滝等でのアイスクライミングを中止にした。
まとまった降雪中や降雪直後に谷沿いに入るのが危ないのはもちろんだが、八ヶ岳では谷沿いだけでなく、硫黄岳の赤岩ノ頭直下の斜面などもたびたび雪崩が起きているし、雪の状態いかんによっては赤岳の地蔵尾根や文三郎尾根上だって雪崩ることがある。
多量の降雪中、降雪直後は、すなわち斜面ならどこだって雪崩る可能性があるということだ。
だから私はそういうときは山行を中止するか、あるいは100%雪崩の危険のないエリアに行き先を変更する。
アイスクライミングだったら例えば、美濃戸口の林道下の氷柱(上に斜面がない)や、赤岳鉱泉や岩根山荘の人工氷瀑など……。
雪山に行くはずだったのを、伊豆の岩場でのクライミングに変更することだって決して珍しくはない。
むろん、絶対中止にせずとも、コースによっては雪の状態を慎重に見極めながら安全な範囲で登ってみるという選択肢も当然あってよい。
ただ言うまでもなく、一番安全なのは最初から入山しないことなのであり、私などはけっこうその“一番安全策”を選択してしまうことが少なくない。
多量の降雪直後は文句なしに要注意だが、もう一つ私が特に危ないと考えているのは雨が降ったときである。
雨が降っている最中も危ないし、降った直後も危ない。
そして雨が降った後に気温が下がって雪に変わり、たくさん積もったときなどは最大注意日である(と私は思っている)。
5年くらい前、年末に剱岳の小窓尾根に向かったパーティーが小窓尾根取り付きの斜面で雪崩に遭う事故が起きたが(この斜面は過去に何度も雪崩が起きている)、このときも入山する少し前にあの辺りで雨が降ったという話を聞いている。
たとえ雨が降らなくとも、すごく暖かい日のあとに降雪があったときなどは雪崩の要注意日だと認識したい。
春の山は厳冬期の山に比べ、雪がしまって登りやすくなるけれど、雨の降る日や気温の高い日は厳冬期よりも当然多くなり、条件がそろえば雪崩の出やすい状態にたちまち変わる。
多くの登山者が雪山を目指すゴールデンウイークなども、雨のち雪という天候パターンになることは少なくないから、そんなときはぜひとも注意していただきたい。
少なくとも学生時代の私たちのように、「晴れた。さあ行くぞー!」ではなく、たとえ天気が快晴でも、まずは雪崩の危険をよく判断してから歩き出すようにしよう。
著者:松原尚之